競馬の歴史


昭和11年(1936年)そして、競馬法の大改正が昭和11年(1936)に行われ、全国の11競馬倶楽部は、翌12年すべて解散、その全権利義務を含めて合併、日本競馬会が誕生しました。

馬の改良増殖、馬事思想の普及を図ることを目的とする法人としてその性格、権利、義務が詳細に定められ、また、競馬施行のための具体的な規定も、従来、各倶楽部が独自に制定していたものを一本化し、政府の許可制に改めるなどと決められました。その後まもなく、4歳クラシック競走の体系が確立し、昭和16年には、業績が戦前におけるピークに達しました。

第二次世界大戦の末期、競馬は一時中止のやむなきにいたりましたが、終戦後、昭和21年には、まず東京・京都の両競馬場で、さらに翌22年には、上記の2場以外に中山競馬場など計4場で開催されています。

ところが、当時のGHQ(連合国軍総司令部)の指示により、日本競馬会は閉鎖の危機にさらされましたが、関係当局必死の努力により、辛くもそれを免れたものの昭和23年に解散となりました。そしてこの年、新しい競馬法が制定されました。

条文の多くは、旧競馬法をそのまま継承したものでしたが、特に変わった点は、地方競馬を含めて、法律上わが国の競馬を体系化したことにあります。これによって、国営競馬(後の中央競馬)と地方競馬という、わが国の2つの競馬体系が定まることになったわけですが、前者は、日本競馬会の資産一切を引き継ぎ、農林省に競馬部を新設し、東京など3競馬事務所を設けて発足したものです。

この時期に連勝式という新しい投票法の導入や場外勝馬投票券発売所施設の新設をはかり、新たな競馬体系を構築する動きがみられました。

戦後の疲弊と混乱から立ち直り、安定した社会的状況のもとで、昭和27年、農林大臣の諮問機関として、競馬制度審議委員会が設置されました。

同委員会は、当時問題となっていた民営移行論について審議を重ね、国営競馬は、その施行体を全国一体の特殊法人とすべき旨の答申を出し、政府は国営競馬の民間移管を決定しました。

(JRA資料より)

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